平野政吉と藤田嗣治

平野政吉と藤田嗣治

平野政吉(1895(明治28)年-1989(平成元)年)は資産家・平野家の三代目として秋田市大町一丁目に生まれました。若い頃から浮世絵や骨董を収集し、さらに刀剣、陶器、仏画、洋画、彫刻へと収集のジャンルを広げました。
藤田嗣治(1886(明治19)年-1968(昭和43)年)は東京府牛込区(現在の新宿区)で生まれ、東京美術学校を卒業後、1913(大正2)年に渡仏します。1920年代のパリにおいて「乳白色の裸婦像」で一躍画壇の寵児となり、画家としての地位を確立しました。 1931(昭和6)年にはパリを離れ、約2年間、中南米を巡遊します。帰国後は、二科会員として作品を発表し、東京、大阪、京都などで壁画を制作しました。
平野と日本滞在中の藤田は、1934(昭和9)年秋、東京の二科展の会場で出会います。その5年前の1929年(昭和4年)秋、平野は藤田が一時帰国した折の個展を観覧し、その作品に惹きつけられていました。
1936(昭和11)年6月、藤田の妻マドレーヌが急死。平野と藤田は、秋田にマドレーヌ鎮魂の美術館を建設することを合意しました。美術館への展示を目的に、藤田は、作品を多数平野に譲渡します。美術館の設計のために秋田入りした藤田は、「秋田の全貌」をテーマに壁画を制作することを表明。1937(昭和12)年3月、平野がアトリエとして提供した米蔵で、壁画《秋田の行事》を制作しました。しかし、平野と藤田が構想した美術館建設は戦時下、中止を余儀なくされます。
壁画制作から30年が経過した1967(昭和42)年5月、平野と藤田が夢見た美術館は秋田県との連携のもと秋田県立美術館として開館します。この開館に先立ち、平野は自らの収集品を基本財産とする財団法人平野政吉美術館を設立しました。そして《秋田の行事》をはじめとする1930年代の藤田作品を、同館において公開したのです。

平野政吉と藤田嗣治

平野政吉(右から二人目)と藤田嗣治(右)
1936年7月 秋田市平野邸にて

平野政吉コレクションの主な藤田嗣治作品

《秋田の行事》

(C) Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2021 E4375

《秋田の行事》

  • 藤田嗣治
  • 1937(昭和12)年
  • 油彩・キャンバス
  • 365.0×2050.0cm

秋田市の商人町・外町に関わる祝祭と日常が描かれた壁画である。画面右から日吉八幡神社の秋の例祭、太平山三吉神社の春の梵天奉納祭、夏の竿灯、冬の日常風景が展開する。米俵、油井、材木、酒樽は秋田の農業、鉱業、林業、醸造業を表し、祝祭と日常の境界の橋が古代からの秋田の歴史を暗示する。藤田と秋田市の資産家・平野政吉が構想した美術館のため「秋田の全貌」というテーマで制作された。

以下の作品画像については指定管理を行っている秋田県立美術館のホームページでご覧ください。

《眠れる女》

  • 藤田嗣治
  • 1931(昭和6)年
  • 油彩・キャンバス
  • 74.4×125.0cm

描かれた女性は、パリで出会い、中南米から日本へと旅をともにした藤田の妻・マドレーヌである。藤田はマドレーヌをモデルとして、多くの裸婦像を制作した。1936年、マドレーヌが急死した直後、藤田が列車で秋田入りする折に、この作品を抱きかかえてきたというエピソードが伝えられている。

《町芸人》

  • 藤田嗣治
  • 1932(昭和7)年
  • 油彩・キャンバス
  • 98.5×78.5cm

藤田は1931年10月にパリを離れ、12月にリオ・デ・ジャネイロに到着する。そこで見かけたサーカス一座が豊かな色彩で描かれている。約2年間の中南米旅行で、藤田のまなざしは、街路の風景に向けられていく。

《カーナバルの後》

  • 藤田嗣治
  • 1932(昭和7)年
  • 油彩・キャンバス
  • 98.5×79.0cm

ブラジルに到着した年の翌年、1932年2月に藤田は、リオ・デ・ジャネイロのカーニバルに遭遇する。「サンバのリズムで三日間夜通し踊り続け、歌い疲れて車道人道に皆眠っている。撒き散らかしたテープ、コンフェチの色紙は、山のように町々に積まれてしまう」と、藤田が随筆に記した情景が、そのまま画面に描き出されている。

《室内の女二人》

  • 藤田嗣治
  • 1932(昭和7)年
  • 油彩・キャンバス
  • 95.0×77.0cm

二人の女性と室内の様子がリアルに描かれている。女性は、ブラジルの都市、リオ・デ・ジャネイロの辺縁に生きる女性であろう。女性たちの体は、筆触を残した描き方でモデリングが強調されており、そのポーズや視線からは、生身の人間としての存在感が伝わってくる。

《北平の力士》

  • 藤田嗣治
  • 1935(昭和10)年
  • 油彩・キャンバス
  • 180.9×225.4cm

1934年11月半ばから約1カ月間、藤田は中国を旅行した。この時の取材をもとに、翌年制作された作品である。力士たちの堂々たる体躯が圧倒的で、市場に集う人々もリアルに表現されている。密集した群衆が猥雑さを醸し出し、「東洋の不可思議な大都市」の一断面が、濃厚な色彩で描かれている。

《五人女》

  • 藤田嗣治
  • 1935(昭和10)年
  • 油彩・キャンバス
  • 192.5×128.5cm

湖水、森、なだらかな稜線の山並みを背景に、裸婦と着衣の女性が佇んでいる。描かれた女性はすべて、妻・マドレーヌである。中南米旅行中にマドレーヌを描いたデッサンを下絵として、東京・戸塚のアトリエで描かれた作品である。

《吾が画室》

  • 藤田嗣治
  • 1936(昭和11)年
  • 油彩・キャンバス
  • 30.0×39.4cm

愛蔵品に満ちた戸塚のアトリエが細やかに描かれている。暖炉のまわりに飾られているのは、平賀源内《西洋婦人図》風の婦人像とキリスト教の絵画。室内に日本の船箪笥や火鉢が置かれ、梁にはペルーやメキシコなどの仮面がかけられている。世界を巡り、境界を越え、東西の融合を目指した画家自身をもっともよく表した作品といえよう。

《自画像》

  • 藤田嗣治
  • 1936(昭和11)年
  • 油彩・キャンバス
  • 127.7×191.9cm

江戸情緒がのこる四谷左門町の借家での自画像である。日本へまなざしを向けはじめた藤田だが、1936年夏から秋にかけて、その生活は、妻マドレーヌの急死で揺れ動いていた。雑然と置かれた家具、弛んだ姿勢、挑むような視線には、当時の藤田の不安定な心情が投影されている。

《私の画室》

  • 藤田嗣治
  • 1938(昭和13)年
  • 油彩・キャンバス
  • 36.3×44.2cm

東京市麹町区下六番町に1937年夏に建てたアトリエ兼住居の室内を描いた作品である。この本格的な和風の家からは、日本への回帰の決意ともいうべき藤田の心境をうかがうことができる。後に改装され、その洋風のアトリエで藤田は戦争画を描いてゆく。